養老孟司さんの本は、ほぼ読ませていただきました。
現代人が忘れかけている「人間の生物性」「環境の重要性」などの主張は、
共感できるものでした。
そんななか、
養老先生の「自分の壁」という本が発売され、
その本の帯に「自分探しなんてムダなこと」と大きく書かれているのを目にしました。
明らかにマーケティングを意識した、キャッチコピーです。
本の内容について書くものではなく、
出版社がセールスのキャッチコピーとして本の一部を切り出し、
手に取らせることだけを目的としたマーケティング手法に対するものです。
「自分探しなんてムダなこと」by 養老孟司先生 は本当なのか?
ということについて、考えてみます。
私は、「自分探しなんてムダなこと」は、結論としては正しい」と考えています。
養老先生は長年にわたり、解剖や昆虫の研究、解剖する死体を用意するために遺族と面談する、
などの経験をもとにたどり着かれた答えとして、
文中で「自分探しなんてムダなこと」と表現されています。
しかし、著書のなかでは「自分探し」というもの、
「自分というもの」がしっかりと説明がされており、
「自分探しなんてムダなこと」という一文では語り尽くせる概念ではないのです。
(著書での結論は、ネタバレになりますので、割愛します)
また、講演などの限られた時間で
「自分探しなんてムダなこと」ということだけが聴衆に伝わることもあるでしょう。
このような、「自分探しなんてムダなこと」という言葉を、
表面的に理解することはとても危険なことだと考えています。
「自分とは何か」あるいは「何者か」を考えることを自分探しと定義すると、
この思索のプロセスはムダなものなのでしょうか。
また、「自分探しをする」という自由を否定することにもつながるのではないでしょうか。
私は、自分、あるいは自我についてのアプリオリな答えを持っています。
しかし、その答えをもってして、
(特に若い人の)「自分」についての思索の機会を「ムダなこと」と否定することは、大人としていかがなものでしょう、と思うのです。
レベルこそ違っても、子供に「サンタクロースなんて最初からいないよ」、結婚式の祝辞で「出会いがあれば別れがある」、子供が生まれた母親に「この子は何歳まで生きるのか」と言っているようなものと感じられます。
もう一つ気になる点は、
「ムダなことはするな」的な考えです。
旅行を考えると、寄り道や想定外のことによって、
新しい気づきや思い出ができることも多いものではないでしょうか。
というように、「ムダなことにこそ新しい発見がある」などと断言してしまうと、
これもまた押し付けになってしまう可能性があります。
改めて考えてみると、世の中に「断言」する人は増えてきています。
自分自身で情報のリテラシーを持つ必要性が高まっています。
情報を鵜呑みにしない。
自分で出した結論を、「もう一段だけ」深く考えてみる。
これを継続することで、情報リテラシーは格段に向上するでしょう。
養老先生の著書「バカの壁」という壁を突破するためにも、
私自身も注意したいと考えています。